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歴史的意義

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城郭の花、朝鮮の花

水原華城は朝鮮の絶頂期に誕生した。それは、悲運の死を遂げた思悼世子の墓所を移すことに始まったが、結果的には世界から人々が好んで訪ねる文化遺産となった。時代や国を問わず、発展、深化、絶頂、衰退という曲線を描きながら歴史は流れてきた。水原華城の建設以後と見られる朝鮮の政治的文化的衰退は、逆に水原華城を極点に乗せるという矛盾を産んでしまった。そのために水原華城は朝鮮の花であり、韓国の城郭の花である。

しかし花がどんなに美しくて香りが奥ゆかしくても、きちんと育てて見守らなければ枯れて死んでしまう。今日の私たちに与えられた天命はそれで自明である。この美しい水原華城をどのように育てて守っていくのか。水原華城に込められている大切な精神をどのように解釈して教訓としていくのか。水原華城を建設した人々も立派だったが、それをしっかり守り育てた今日の私たちも立派だったと、200年後の子孫たちから評価を受けられるように、重い責任を感じるべきだろう。

実学の都市、水原華城

新しい水原は出発から実学と縁があった。磻溪柳馨遠の実学思想が新しい水原の道を開き、茶山丁若鏞を始めとする多くの実学者たちが築城に尽力した。しかも時代的な流れは実学精神を現実に投じなくてはならない状況に置かれていた。急変する国際情勢の中で西洋の科学と技術文明が清国を通って朝鮮に入ってきた。また、商業と農業の発達による経済構造の再編成は、その時まで朝鮮を率いてきた性理学を極めて空理空談的な旧学と感じさせるようにまでなっていた。

正祖は恐らく、水原華城を朝鮮実学の実習場として使おうとしたのかもしれない。いくら良い理念であっても、それを国家の統治全般に活用するということは大きな冒険だ。しかも政治的な見解が違う部類の反対も、また見過ごすことのできない障害物である。また、既得権層の抵抗も充分に予想される。これら全てを避けて現実に適応させる方法としても水原華城を建設したのだろう。機械や器具の開発と活用は民の苦労を減らす役割もするが、経費を削減しながら公役期間を短縮させる近道でもある。これは實事求是の精神がなければできないことだ。

民のための水原華城

水原華城には国王の愛民精神がいっぱいに盛り込まれている。設計を変更してまでも住民たちを城の中に引き入れた点と、公役者たちに人件費を支給した点、そして滌暑丹、濟衆丹などの丸薬を下賜し、蒸し暑さと人件費未支給の際には工事を一時休止したことなどは民を愛する精神の所産だ。民を本当に愛していなくては有り得ないことである。

最初、新しい水原の建設計画には城の築造が含まれていなかったようだ。そうするうちに水原が華城留守府に昇格して城を築こうということになった時、多くの民家が城の外に押し出されることになった。築城の責任者がどのようにするべきか躊躇していると、正祖は城を3度曲げたり伸ばしたりすることになったとしても全部受け入れろとの命を下した。城を拡張するということは国庫の損失を加重させることだ。これはすなわち、国庫の損失より水原住民を優先したという話である。蒸し暑さがひどい時には正祖は華城城役に参加している公役者たちの労苦を考えて滌暑丹を作って下賜した。夏負けした時に飲む丸薬を特別に作って下賜したのである。薬を支給された人々は薬の効能より国王の民を愛する心に、より大きな感動を受けただろう。そしてその感動はまさに最高の城を建設する原動力になったはずである。

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